「大事」と「大切」。
同じような意味を持たせて
普段何気なく使っている言葉だけど、
2つの言葉に使い分けているということは
何か意味があるのだと思うので、
改めてこれについて考えてみました。
まず本来の意味を辞書で見てみると、
【大事】
重大な事柄、容易でない事件。
大がかりな仕事、大規模な計画。
たいへんな結果、非常に心配な事態。
価値あるものとして、大切に扱うさま。
重要で欠くことのできないさま。
ある物事の存否にかかわるさま。
【大切】
もっとも必要であり、重んじられるさま。
重要であるさま。
丁寧に扱って、大事にするさま。
急を要するさま。
とあり、どちらも、
言葉の意味としては、大差がなく、
重大に取り扱うこと、
普段のこととは区別して一段階上の対応を要すること、
と言う意味のようです。
言葉は意味を持たされているものだけど、
普段は意味を厳格に気にするよりも、
意味を外れない範囲でその場の雰囲気で使っていることもある。
自分が日頃、この2つをどんな使い方をしているのか見てみると、
「この書類は大事だから、紛失しないようにきちんとしまっておこう。」
「明日は遅刻できない大事な約束があるから、今日から準備しておこう。」
「これはあの人から借りた大切なものだから、丁寧に取り扱おう。」
「あの人は自分にとって大切な人だから、優しくしてあげよう。」
などなど。
私は、
「大事」とは、そのもの自体が、
社会的にも個人的にも重要であり、
壊れたり無くなったりすると、
替わりが効かないもの、
「大切」とは、そのものが付随して持っている存在や価値が、
社会的価値に拠らず個人的に重要であり、
それは普通のものと分けて取り扱うこと、
と、使い分けているような気がする。
例えば、
預金通帳や実印、
家や車の鍵、
仕事で使うPCやデータなどなど、
それしかなくて取り替えの効かないもの、
無いと不便なものは大事。
友達が貸してくれたCDやDVD、
趣味で集めた葉書や切手、
小さい頃おばあちゃんからもらった手袋などなど、
一般的に見れば取り替えは効くけど、
思い出とか感情とか、
それに付随した価値があるから、
取り替えが効かないものを丁寧に扱うことは大切。
「大事」は自分にとって物質。
「大切」は自分にとって在り方や行動。
言葉は自分の内面を現すものであり、
自分が使う言葉のとおりに現実はなっていくから、
この2つの言葉を普段使っているものを
自分は「大事」、「大切」にしているし、
現実はそのとおりになっていく。
自分は何に対して「大事」と言う言葉で
表現しているか、
自分は何に対して「大切」と言う言葉で
表現しているか。
「大事なもの」
家族、友達、仲間。
時間、お金、水や空気、太陽。
住むところ、働くところ、遊ぶところ、学ぶところ。
「大切にする」
優しくする、親切にする、丁寧に取り扱う。
信頼する、任せる、あずける。
見守る、勇気づける、応援する。
整える、十分に活用する、楽しむ。
自分にとってかげないのないものを「大事」にして
自分にとってかげないのないものを「大切」に扱っている(と思っている)。
家族や仲間には優しくしてあげたいし、
見守ってあげたい。
水や空気は丁寧に扱って、
元のとおりに元の場所に返してあげたい。
住むところ、働くところは、整えたいし、
そのものの役割を心から楽しんであげたい。
そして、
家族や仲間に優しくしてあげたり、見守ってあげたり、
水や空気を元のとおりに元の場所に返してあげたり、
住むところ、働くところを心から楽しんであげることって、
物質的にも、精神的にも恵まれていること。
自分に余裕がないと
「大事」なものに気づけないし、
「大切」できない。
「大事」なものを
「大切」に出来ることは豊かなこと。
自分の目の前にある「大事」なものを、
「大切」にすることって、
一見、自分が何かに対して、
「してあげている」、
「与えている」
ように見えるけど、
実は、自分が何かから、
「受け取っている」こと。
今、自分にとって「大事」なものは何ですか。
今、自分の「大事」なものを「大切」に出来ていますか。
自分の「大事」なものを
「大切」に出来る時間を持ってみませんか。
自分の「大事」なものを
「大切」に出来る心のスペースを持ってみませんか。
今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました。
いつもあなたを応援しています。